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本館の前庭

冬夏会会長 平井聖(昭和27年卒/本学名誉教授)

 私が入学したのは、昭和24年です。家が大岡山の隣の北千束駅の近くでしたので、それ以前から時々東工大のキャンパスに遊びに来ました。

 高校生の頃、構内に遊びに入った時の思い出ですが、加藤六美先生設計との噂のあった図書館が最近まで建ち、今も計算センター、清家清先生設計の本部館が建っている区画は、赤と黄色の花が一列ごとに交互に植わっていた広大なカンナの花壇でした。どうして花の色まで覚えているかというと、その時一緒に行った従兄が、どうしてこのカンナは一列おきにしか咲かないのかなあといったからです。

 今、毎年春になると、本館の前を彩る桜、この桜は一本もありませんでした。この桜がどのような動機で植えられたのか、私は知りません。確か入学してから後に、ヒョロヒョロの苗木が植えられたと思います。講堂が建ったころでも、今のように見事な桜の木という印象ではなかったように思います。研究室においていただいた後でしたが、藤岡通夫先生が「せっかくのフランス式庭園が、台無しになってしまう」とおっしゃっていたのを覚えています。今はデッキが出来て下がよく見えませんが、本館前の車道で囲まれた長方形の部分は、花壇になっていて、ここにもカンナが花を咲かせていました。桜を植えると、その下は草花が育たないので、せっかくの花壇が台無しになってしまうということでした。このようなコメントを聞いたということは、桜の木を植えるのに建築学科の先生たちはかかわっていなかった、ということでしょう。

 入学したころの本館は、戦争中の迷彩がそのまま残っていました。たしかコールタールだったのではないかと思いますが、まだらに黒い塗料が塗られていました。中央の塔も、まだらでした。その記録写真は、百年記念館に残っているようです。こんなことで、B29の目を逃れることができたのでしょうか。大岡山の上を飛んで、迷彩を施した本館を見てみたいものです。

 迷彩にもかかわらず、大岡山は焼夷弾の雨の洗礼を受けました。商店街は南口だけでなく、北口側も焼け野原になりました。正門から本館への歩道に、中身の油脂が飛び散った後の、6角形の焼夷弾のケースがだいぶ後になっても地面に刺さったまま残っていました。東工大の巻き添えだったかどうかはわかりませんが、北千束駅の周辺にも、焼夷弾が降りました。私の家は幸い焼けませんでしたが、束ねた焼夷弾の先端の重りが隣の家との境に落ちました。地面にめり込んだものが爆発物でないということが確認できるまで、避難させられました。私は玄関前で上空を眺めていたのですが、ヒュルヒュルと何か落ちてくる音が迫ってきたので、門扉に貼りつくように避けました。その直後に、それまで立っていたところに、大きな音を立てて、焼夷弾の束を包んでいた鉄板が落下しました。避けていなかったら、鉄板に直撃されて、今の私はいなかったことになります。

昭和24年 迷彩柄に塗られた本館 昭和25年 桜の苗木が植えられている
 須山英三氏撮影(昭和28年化工)
昭和34年頃 竣工してまもない創立70周年記念講堂      平井聖撮影