会員便り
同期会便り

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清家清会長誕生の頃

会長 平井聖(昭和27年卒/本学名誉教授、昭和女子大学名誉学長・名誉教授)

 もともと、冬夏会には会長というポストがありませんでした。会を取り仕切っていたのは、幹事長でした。現在でも、冬夏会を運営しているのは幹事会で、幹事会は幹事長が司会進行しています。このことは、会長、副会長職が置かれている今でも変わっていません。現在、会長と副会長も幹事会に出席してはいますが、公式には出席の義務も発言権もありません。会長の仕事は、新年の総会での挨拶くらいでしょう。

  冬夏会では、毎年新年に総会と新年会を開き、その機会に評議員会と幹事会を開くのが通例で、昔は新年会と総会は新橋の蔵前会館で行われていました。しかし、1988(昭和63)年の新年会は、創立100年を記念して建設が進められていた百年記念館が竣工したことで、初めて大岡山で開催されました。新年会の開催通知は、「冬夏‘87」という小冊子に掲載され、総会の日は「63年1月22日」でした。

  冬夏会の会員名簿は毎年年末に発行されるのが常でしたが、予算上毎年名簿を刊行することがむつかしくなったということで、はじめて「冬夏’87」という小冊子が発行されたのです。(このような小冊子の発行はこの年だけで、1988年からまた毎年発行に戻っています。)名簿は、毎年、会員の皆さんが年賀状を出すのに間に合うようにと、12月の初め頃会員の手元に届くように発行されています。再開された1988年の名簿は、1988年の11月末日の発行で、この名簿を見ると役員の条項に、会長1名とあり、それまでの条項にはなかった会長が追加されています。附則欄にこの会則の改定は昭和63年1月22日となっていますから、百年記念館ではじめておこなわれた総会で可決されたわけです。そして初代の会長は、清家清先生でした。

  この会長職の新設と、会長清家先生にはいささか複雑な背景があるのです。ことの発端は、1985年の総会に遡ります。この総会で幹事長が大西亥輔さん(昭和9年卒)から藤本盛久先生(昭和21年卒)にかわりました。役員の任期は3年ですから、幹事長は3〜4年若返るのが通例です。12年の若返りは異例です。さらに、1988年には幹事長が昭和24年卒の中里昌弘さんにかわるということで、昭和18年卒の清家先生の出番がまったくなくなってしまったのです。清家先生に冬夏会の代表をという気持ちは多くの会員の中にありました。そこで一計を案じたのです。

  そもそも、藤本先生と清家先生の間には、1976年以来もやもやしたものがありました。この年は清家先生の「ちがいがわかる男」のコマーシャル(ネスカフェ)が流れた年です。ちょうどそのころ学長選挙と工学部長選挙があり学長候補の一人には清家先生、工学部長候補の一人には藤本先生のお名前が挙がっていました。建築学科としてはどちらも大切な役職ですが、学長のほうがより望ましい役職でしたから清家学長実現に動いていたのです。しかし、学長選挙の結果は、10票に満たない数票の差で清家先生は落選ということになったのです。その原因が、藤本先生の説得で数票が相手の候補に流れたことにある、ということで確執が始まったのでした。このことの背景には、学長と工学部長の両方が一つの学科からということは考えられないという不文律があったのです。公務員である清家先生が、許可を取らないでコマーシャルに出た、ということが問題だといわれたこともあったようです。清家先生はその点については用心されていて、勤務時間中に撮影したのではないとおっしゃっていました。そのあとの工学部長選挙では、藤本先生は当選ということになりました。そうしたことがあって、1978年度には、清家先生は東京芸大を兼務されることになり、本拠を芸大に移されることになります。

 冬夏会に会長職ができたのは、1988年の総会の決議によります。清家先生を同窓会の象徴にということで、会則改定を試みたのです。冬夏会の顧問であり、すでに退官され名誉教授でした藤岡通夫先生にご相談し、一気に総会にかけて会長職をつくり、その会長に清家先生をということにしたのでした。総会では皆さんの賛同が得られ、そこに清家先生登場という運びになったのですが、清家先生は先生らしいいつものとぼけ顔で何のことかわからないけれど出て来るように言われたので、とおっしゃりながら登壇されてご挨拶くださいました。


1987年発行の小冊子・冬夏 表紙は大岡山キャンパスのスケッチ