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小林陽太郎先生を悼む

堀越哲美(昭和50年修士修了)

 小林陽太郎先生が,去る2012年7月7日に満95歳で,逝去されました。ここに,謹んで心より哀悼の意を表します。

 先生は,1917年兵庫県でお生まれになり,1941年東京帝国大学工学部建築学科を卒業され,1950年国立公衆衛生院建築衛生学部に着任されました。1970年に東京工業大学工学部建築学科教授に併任され,1973年には専任となられました。主に室内と屋外の熱環境快適性の研究をされ,建築環境工学の教鞭をとられました。大学院では自ら名付けられた「人間環境工学特論」を講述され,学外の方々を講師とした「公害防止工学」の大学院授業も企画されました。1978年定年となり,豊橋技術科学大学教授として赴任されました。学生は,先生からフィロソフィーの大切さを学びました。共に学び,真理を追究するという姿勢が先生にはありました。社工棟実験室で,計測器の示度を天眼鏡で読んでおられるお姿を思い出します。

  先生は,建築衛生学・建築環境工学の研究者としてご高名で,1960年に日本建築学会賞(論文),1993年には日本建築学会大賞を授与されるなど,数々の受賞をされておられます。1990年には勲三等旭日中綬章の栄誉に輝いています。さらに,国際連合世界保健機関専門委員,空気調和・衛生工学会長など多くの要職をお務めになられました。先生の研究キーワードは,「健康」で,WHOの健康の定義を翻訳され,健康を守る建築環境工学のフロー図を作られ,来るべき環境の時代を既に予言されていました。先生は,早くから語学の重要性を強調され,論文は英文で書くべきことを唱えられました。あいまいな説明や文章は,「英語で言うとどうなりますか?」と,論理的思考と表現を求められ,英語表現での適格性を痛感しました。この辺りが厳しい先生といわれたことかもしれません。

  しかし,学生にとってはやさしい先生であったと思います。研究室では,海山のゼミがあり,海は房総の上総興津と決まっていて,山では八ヶ岳,越後三山も訪れました。研究室必須事項のランニングは学内でも有名でした。学生が研究室に配属された途端,ランニングをさせられ,学内駅伝や関東圏の環境工学研究者のマラソン大会に参加するのでした。しかし,楽しく走った後は,美味しい麦酒での乾杯が待っていました。6高陸上部であった先生にとって,ランニングは,研究生活の一部でした。先生はまめな性格で,研究室の卒業生の名簿管理やランニング記録を自ら整理,配布されて,本来担当すべき我々は,恐縮ものでした。先生は,大学を離れると,絵画を嗜まれ,韓国語を学び,バッハの合唱団に所属し,心を和まされておりました。キリスト者として,教会で子どもたちへの教育や入院家族の居場所設置活動に携わられ,定年後も健やかな毎日を送られていたと伺っております。最後の枕元には建築学会の梗概集がおかれてありました。

 このような,偉大な先生を失ったことは,痛恨の極みであります。先生の生前の研究教育のご功績と社会への多大なるご貢献に敬意を表し,謹んで感謝申し上げ,哀悼の意を表します。