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篠原一男先生を悼む

武田 光史(昭和48年卒/日本工業大学 教授)

 4年の新学期が始まって、研究室所属のことが話題になった。奥手の僕は、 1972 年のそれまで何も知らなかったけれど、日本建築界の『若手の偉才』が東工大にいるらしい、という噂を聞いた。それが声の小さな図学の先生だ、と知って意外な思いをした。1年生の時、西5号館の階段教室での授業中に、誰かが『聞こえませ?ん』と声を上げると『静かにしていれば聞こえます』と一言、威厳をもって小声でおっしゃった。先生は図学を教えるのが好きだった。数学者を志した経歴のためか、特に『幾何学』に強い想いがあったように思う。

 研究室に所属した直後に『未完の家』を見学した時の衝撃は忘れられない。初夏の午後の日差しの中から、狭い入口の空間を抜けて、空調の効いた広間に入った。脚が震えた。住宅で、これほどの感銘を与えることが可能なのか、と驚愕した。『白の家』を頂点とする日本の伝統的様式から『亀裂空間』へと、自らが築いた様式の転換を試みていた。

 アンビルドの建築に否定的だった先生は、建築を具現化するプラグマティズ厶と建築的思考のラショナリズ厶の乖離を、誰よりも自覚しておられた。ご自分に正直だった先生は、そのことを曖昧にしたまま建築の講義をすることを潔し、としなかったのだろう。建築学科に移った後は、その代償であるかのように、設計製図の非常勤講師に磯崎新、槙文彦、伊東豊雄、倉俣史郎など、眩いばかりの時代のトップランナーを招いた。学生にとって、なんて素晴らしい経験と環境だった事だろう。居ながらにして世界的な建築家と接する学生たちに、軽い嫉妬を覚えたほどだ。

 先生は天才的な戦略家ではあったが、建築家としては努力家だった。自己変革と作品を世に問う、というオブセッションに突き動かされるかのように、止まることなく仕事をなさった。絶壁を素手で垂直登坂するような、壮絶で孤独な戦いは、はたで見ていても息が詰まりそうな緊張感に満ちたものだった。『先生ほどの名声があれば、もっと楽に建築が出来るのでは』という浅薄な質問に『それが大学に奉職する建築家の努めです』と、簡潔に答えられた。あらゆるものを犠牲にして、建築だけに殉じた人生であったように思う。

 2006 年 9 月 23 日に東京工業大学百年記念館で「篠原一男先生 お別れの会」が開かれた。大勢の先生ゆかりの方々と OB が集り、先生のことを語り合った。

 篠原一男先生のご冥福を、心よりお祈りいたします。